new!! 1/3 作品紹介の「雪之小面」「弱法師」を更新しました。ご高覧ください。
8/11 作品紹介の「べし見悪尉」を更新しました。ご高覧ください。
1/23 作品紹介の「邯鄲男」を更新しました。ご高覧ください。
6/12 ブログ ”能面の彩色” を掲載しております。ご高覧ください。
3/25 作品紹介の「童子」を更新しました。ご高覧ください。
3/14 作品紹介の「近江女」を更新しました。ご高覧ください。
12/26 作品紹介の「小面(雪)」、「増女(増阿弥作写し)」を更新しました。ご高覧ください。
9/6 作品紹介に「節木増(銘 松風)」を追加しました。ご高覧ください。
8/14 舞台に「大会」の舞台写真(鷹/中べし見)を追加しました。ご高覧ください。
8/14 作品紹介に「中べし見」を追加しました。ご高覧ください。
8/1 作品紹介に「赤般若」を追加しました。ご高覧ください。
7/25 作品紹介に「山姥」を追加しました。ご高覧ください。
7/25 作品紹介の「節木増(越前出目作写し) 2作」を更新しました。ご高覧ください。
3/16 ブログ ”能面のチカラ” を掲載しております。ご高覧ください。
3/10 舞台に「楊貴妃」の舞台写真を追加しました。ご高覧ください。
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10/18 舞台に「道成寺」、「井筒」の舞台写真を追加しました。ご高覧ください。
18/8/29 お知らせ ”喜右ヱ門の「能面」を使ってみませんか?” を掲載しました。ご高覧ください。
宝増 三曜会第2回 能「船弁慶」シテ 佐久間二郎師
宝増
【わたしの逸品】 宝増
この面は宝来が打った増女(宝増)を写したものです。
増女のもつ端麗さだけではなく女性のやさしさも垣間見せます。
この面は女面として彩色の上で多様なあそびの要素を多く含んでおり、これらが表情にさまざまな変化を与えてくれます。面袋から取り出し見るたびに、その面の世界が広がってゆくようです。私の大好きな面の一つとなっています。
さらに先回の個展の際にも多くの方々にご好評を頂きました。有難いことです。
この宝増は手放したくない能面のひとつで、女面を打つ際の手本としている面です。
若女(雪)
【代表的な能面】 若女(雪)
この面は横浜能楽堂20周年記念の能「六浦」(シテ 観世流能楽師 野村四郎師)で使用されました。(同時に開催された能面コンクールで大賞を頂きました)
面は若女で型は伝増阿彌作をもとにしました。後シテは楓の精でありその舞台での性格を考えて強さは表には出さずに、内に秘めた表情に心がけました。優美な序ノ舞でも楓の精の思いが伝わるよう彫刻、彩色を工夫し、また、生きている人間でもなければ死相でもない草木の精の色合いとしました。
このような表現を野村四郎先生にご評価頂き舞台でご使用して頂きました。
私が能を観るとき人間の避けられない性(さが)を感じます。舞台のなかでの幽かな感情の変化を自身の心のひだと共鳴できたとき己の存在が肯定され、実感できます。舞台を見ている私を寛容してくれます。能の舞台は私の生きることへの裏付けを与えてくれます。そして小さな仕合せを見つけ出す力を与えてくれます。そのような舞台において能面は能を支える壮大なる試みであったと思います。室町時代に生まれた能とともに能面も生まれ変化してきました。能が今の時代に生き続けていることを考えると室町の人々の思いが今の我々にも在ることが分かります。その息遣いは能面にも顕著に現れています。
私にとって能面を打つことは森羅万象の幽かな変化を感じ取る力を無くさないための修行のようなものです。もちろん打つことそのものが好きであることには間違いありません。室町の息遣いを追いそれを具現できるとき錆びた心身が本来の人間へ回帰します。
面(オモテ)の小さな面積での表現が広大な世界を表せたときそして、見るたびにその世界が広がって見えてくるとき能面を打つことの仕合せを感じることができます。
このように制作してきた能面をここに掲載することができました。皆様のご高覧を仰ぎご指導頂ければ倖であります。
能面の制作では、創作面を除けば元となる古面を写すことが基本になります。骨格はもとより、毛描きを含めた彩色全般も写しとることが必要です。
ここで言っている彩色全般は、古面の作者が意識的に施した彩色や時間の経過で生じた自然な風合い、そしてそれらが複合した景色全体として捉えることができます。
古面を観察すると、特に素晴らしい面には、その表情がバランスよい景色であることが分かります。作者の施しが自然の風合いとあい混じって、どれが意識的な彩色なのか自然的なのか判断できない幽玄な表情を作っています。
以前、「加算と減算」という記事を書きました。単に古びを付けるといった一方的な彩色では、人工的な景色になることが多く、とても幽玄な表情は出てきません。そこに自然的偶然的な要素が加わって初めて幽玄の表情が出てきます。「付ける」という彩色に「取る」いう工夫をすることで可能になります。さらに「取る」彩色と「付ける」彩色が繰り返されると、無為自然な味わいが出てきます。何とも言えない幽玄な表情が出来上がります。
ここに載せました「節木増」は、当初横刷毛目が非常に強くしかも、刷毛目の凹部分に強い青みが入り込み、人工的な態とらしい表情をしていました。キリッとした表情と言えないことはないのですが、やはり能面ですからそこに何か女性の「たわやかさ」が欲しいと、洗い流さずに「取る」彩色を始めました。
薄皮を剥ぐように刷毛目に入り込んだ青みを慎重に取り、上塗りの本来の色を出してゆきました。その過程で、刷毛目の凸部分の高い部分は次第に低くなり、所々刷毛目の線が欠けたような景色が現れてきました。古面の風合いを残すために、全部の刷毛目や刷毛目に入り込んだ青みを取らず、スーッと透き通った部分や逆に強い刷毛目部分を強弱を入れながら残してゆきました。
ここで難しくも重要なのは、取り方が一様であってはいけないことです。自然風合い的な景色を残してゆくことです。この辺りは作り手毎に違うと思いますので細かい内容は言いません。各自で工夫できるところです。
この様にしてできたのがここに載せた写真です。気がついたら手を入れるという作業を繰り返し、彫刻の何倍もの時間を楽しみました。
刷毛目でもない、柚肌でもない表情ができ、強さの中にも「たわやかさ」がある表情が現れました。
能面とは何であるかを考えることがよくあります。
演者が想いを託すもの、観客が自分の思いを写すもの、作り手が魂を注ぎ込むもの。どれもひとの心を重ねてゆくものです。私は作り手です。ひとノミ一ノミに魂を注ぎ、ひと筆一筆に美しさを表してゆきます。それらは、能面を使う者、能面を観る者のために存在しています。そして、作る者にも大事です。心を見つめ、心を表し、心を写したい人たちに大いなる可能性を与えてくれます。その可能性は、作る者から使う者にそして観る者に伝わってゆく能面が持つチカラによって現実なものとなってゆきます。そのチカラは螺旋階段の様に時代時代で変化し、時を超え周り巡ってきました。室町時代に出来上がった能面のそのチカラは、安土桃山、江戸時代と繋がって今の令和の時代にもありありと存在しています。苦しみ、悲しみが多ければ多いほど、そのチカラは本来の姿を現します。今この様な時代だからこそ、そのチカラを使って人間を見つめ直してみては如何でしょうか。
私は作り手として、室町時代から巡っているそのチカラを、形を変えて現在に写し取っています。次の時代に残すために、日々ノミを持ち筆を握っています。
いつかテレビで、絵画の模写にはその作品の持つ揺らぎの写しが一番難しいポイントであると美術家が言っていたのを聞いたことがあります。作品の特徴的な面白さや価値はその揺らぎが決めているようです。模写はその揺らぎを写す作業と言ってもよいのだそうです。その番組を見ていて、私も能面の写しについて同じ感覚を覚えました。
以前のブログでも、能面の彫刻にしても彩色にしても「ゆらぎ」がとても重要であることを書きました。どちらの「ゆらぎ」も無意有意を問わず、作品の無限の広さと深みを醸し出しています。
絵画でもそうですが、「ゆらぎ」がある能面は何回見ても、いつ見ても飽きることはありません。見る人のその時の心の状態次第でどのようにも見えてきます。見る度に新しい発見があります。
能面の作者としての面白みは、この「ゆらぎ」を写す古面(またはモデルとなるオモテ)から探し出すこと、その「ゆらぎ」をどの様に写してゆくかを悩み、作法を見つけることにあると思います。それらを作品に注ぎ込み、能面の無限の広さと深みを眺める時々に見つけることが何にも変えられない楽しみとなります。
もし、日を置いて眺めた時何も見つけることができなかったり、面白いなと感じられなかった場合は、「ゆらいでない」状態、例えば態とらしさや西洋的なフォーマットしか見つからない秩序しかない場合です。そんな時は、態と失敗に近い策動を施します。「ゆらぎ」を追加するのです。そして、また時間を置いて眺めます。こうしたことを繰り返すことが、私の写しの原点です。そして、日に日に出来上がってくる作品を見ることが作品を成長させる原動力となっています。「日に新た」の感覚で、作品に取り組んでいます。そして時を隔てても新しい発見があるような、そして見る人の内面を少し擽るような作品を目指しています。日々新たな気持ちで…。
私の旅に対するイメージは大体次の通りです。
身体の居所を変えながらこころを解き放ち遊ばせ、普段の刺激から離れ、今まで経験のない新しい刺激を求め、そしてこころに新しい栄養を与え、元の居場所に帰ってゆきます。
最近この様な旅はとんとしていません。旅に出なくなったのは、確か本格的に能面を打ち始めてからかもしれません。なぜか旅に出たくなる欲求が起きないのです。こころが枯れるというか、こころが空っぽになるというか。そんな気持ちになることが余りなかった様な気がします。
能面を本格的に打ち始めた頃は、木を削り彩色を施す日々が毎日の様に続きました。こころが空っぽになる時間など全くありませんでした。素晴らしい能面を写すことで、古(いにしえ)の作者のこころと己のこころを重ね合わせ、古の時代に遊ぶ経験をすることができました。古の時代に旅をする様なものです。そして写す能面が変わるごとに遊ぶ内容も、旅の方法も変わりました。こころに流入してくるエネルギーは、日々の生活で枯れてゆくこころを満たすには十分な量がありました。そして、余ったエネルギーは日常のストレスから身体を守ってくれるバリアにもなってくれた気がしています。
それに修行の様な間髪を入れない写しの行為は、こころそのものを良い方向に変質させて行った様です。人間に対する考え方、人との関わり方などストレスがかかった時のこころの置き方、すなわちこころの変え方を理解し実践できる様になったのです。
外から見ると修行の様な能面写しの行為は、この様にこころを遊ばす力を与えてくれました。別な言い方をすると、こころを柔らかにしておき、あらゆることを受け入れる技を身につけたと言えます。この様にこころを上手く動かし、こころを遊ばせながら生長させて行けるものは他に思い当たるものがありません。まるで遠い遥かな国々に旅している様です。
私のもとから旅立ってゆく能面たちが、私に代わって次の人たちのこころに生きるエネルギーを与え、生きる栄養を届けることを思いながら、遥かな旅はまだまだ続きます。
能面を作っていてはじめてよろこびを感じたときのことを思い出すことがあります。自分の能面を見る審美眼が格段に上がったと感じて、その審美眼と自分の作品が同じレベルになった時です。自分の審美眼と作品は、相互に作用して、ある時はゆっくり、ある時は唐突によくなります。能面への審美眼すなわち感性は、ただ能面を作っているだけでは身につくものではありません。確かな技術を習得しながら、名品と呼ばれる作品を見て、心技を整えてゆくしかありません。私の場合、師匠の教室でそれは同時にできました。
私の「能面」に対する審美眼は、師匠の「能面」に対する考え方、向き合い方、そして師匠の作品を直接見聞きすることによって養われました。もちろん、他の能面師の作品も見ています。審美眼は、自分の手で幽玄の色を実践できてはじめて、裏付けを得たことになります。実践できないうちは、会得したと思っている審美眼の力は次第に弱くなっていきます。元に戻ってしまわないうちに、自分で実践するか、師匠の作品を見て、強化するしかありません。これは、永遠の修行のようなものです。そして、修行の中のよろこびはいつ訪れるかわかりません。徐々にまた突然出会うことがあります。だから、「能面」作りを永遠に続けます。「能面」作りは、私にとってよろこびを追い求める永遠の過程であって、限りなくつづく修行のようなものであるからです。
よろこびは、理屈ではありません。自分の感性を作品として表現し尽くしたとき、最初のよろこびは訪れます。そして、舞台にかけてもらった「能面」が魂を吹き込まれたとき、よろこびは倍増します。演じる側と見る側が「能面」を通して目に見えぬ感性を授受し合い、その空間に何か得体の知れないエネルギーを感じる時です。さらに、作品を人前に出し、よりたかき感性を持つ人と直接的に共感できたとき、最上のよろこびとなります。仕合せを感じる瞬間です。
私は、この最上のよろこびを見つけるために、「能面」を作り続け、共感してくれる人々を探し続けます。その人たちは、一体どこにいるのでしょう。よろこびを求めて、永遠に歩き続けます。
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