古面を見たとき自然に付かない所にキズが付いていたり、見えない箇所に幽玄な彩色が施されていることがよくあります。時代が経ったことだけでは説明できない場所に発見できます。古面ではもちろん時代が経るに従ってキズや汚れなどが付きます。
新面も時代が経つと古くなって深みが出てくると言われることがあります。果たしてそうなのでしょうか。能ができた頃、能面も新しく創作されました。その時すでに『幽玄』という考え方があったと聞いています。そして観衆も幽玄を理解する観察眼を持っていたと言われており、能面は最初から幽玄の表現が施されていたと考えてもよいのではないでしょうか。能役者はいのちを賭けた舞台で幽玄のない(つまらない)能面は使わないでしょう。能面師も能役者の思いを引き受けるだけの力を持った能面を作ったに違いありません。
付かないはずのキズも、見えない幽玄な彩色もすべて幽玄の世界で作者が遊んだ足跡だと考えています。もっとひろく捉えると、幽玄の表現全体が古の作者のアソビと呼んでもいいかもしれません。作者の狙い以外に時代を経て付いたキズや汚れなどが面白い景色となった場合もあります。
私は、最初から存在する幽玄と後からついた時代(古び)は分けて考えた方が良いと考えています。作者が考えた幽玄の後に時代(古び)は付くと考えています。時代(古び)を付けたからといって幽玄になるわけではありません。ここを間違いたくはありません。
写しは、古面の幽玄を現代に表現するのであって単に時代の重なりを写すのではない、古面の作者の思いを今に再現するのであってただ懐古するのではないことだと考えています。
そして、写しには古来幽玄の基本となっている日本独特の美的感性も必要であり、能面を作る者はこの感性を常に大事にし、磨いていかなければならないと思っています。
常に写しの奥深さを考え、現代に再現してゆく。再現してゆく中で再びアソビを入れてゆく。そしてそのアソビがまた未来に繋がる奥深さになるよう精進して行きたいものです。