能面打ちとこころについて前回までに日頃感じていることをつらつらと書かせて頂きました。今回は、能の舞台を観てきて最近明確になってきた考えについて話してみます。
能面を作ることを「能面を打つ」と言います。魂を打ち込むということです。打ち込んだ魂が形となって最終的に表情として現れます。さて作者の魂がどのくらい表情となって現れるのがよいのか。作者にとって非常に悩ましいところです。
私が能を見る時、次のようなクセがあります。能面を打っている者としてのクセです。見所で舞台を想像しながら待っている時から舞台を見、舞台から役者が姿を消し、能楽堂を離れ、自宅に帰り、舞台を振り返るまで脳裏に能面を思い浮かべています。舞台を見ている側のこころへの能面の浸透度を知りたいからです。特に舞台が終わり、自宅で舞台を思い出した時の舞台全体と能面とのバランスを見たいからです。
能面が舞台全体の中で沈んでしまっている場合も、逆に能面だけが浮かんで思い出されるのもよくありません。能面よりも能役者の思い、心情の流れの方が強い場合や能面の方が表情、表現が優っている場合です。どちらも能役者の力不足という見方もありますが、特に後者の場合能面の難しさが現れます。強い能面は見ている側の理解を得やすいように見えますし、強く記憶に残りやすいように思えます。しかし、時間が経るに従ってこころからは次第に消えて行きます。見る側が想像し、見る側が主体的にイメージして記憶に刷り込んだものでないからでしょう。能面が見る側のすべての空間を占領してしまって、見る側に想像させる余地を与えていないからとも言えます。
能面が本来持つべき格のある強さとは、その強さの中に、見ている側の思いを沈める隙間(余地)があるかどうかということです。別な言い方をすれば、見る側のこころ持ちによって能面がいかようにも変化して見えるかどうかということです。それが幽玄であることの証だと思います。
能面を打っているものは能の舞台を見なさいとよく言われます。能の曲自体を知るというよりは、能面自体が能舞台の空間でどのような関係性(舞台–能楽師−能面−観客の間の関係性)を持って存在するのか、見る者のこころを惹きつけるのか、また舞台を見る者のこころに刻むことができるのかを作り手として認識することだと思います。能面が持つ格は実際に舞台で使われている時にしか確認できないということを、能面を作る者の心得として、能面を打つ際の道標にして行きたいものです。