「能面」の彩色の写しは、能面師によって随分と違います。何を写すのかは千差万別です。ただ形だけに拘り、見てくれだけを写している「能面」の何と多いことでしょうか。そして、思いの強い一方的な「能面」がよく好まれています。やはり、室町時代から伝わる本面と呼ばれている名品を見る機会が少なくなったことが原因かもしれません。
「能面」を見る時、そしてその「能面」を写す時、大変重要な観点があるように思います。「能面」から伝わる強さだけでなく、見る側の能動的な思いを受け入れてくれるたおやかさが「能面」にあるかどうか。そして、そのたおやかさを見る側が感じ取れるか、見る側にも様々な感情を受け取れる器があるかという点です。両方があってはじめて写しは「写し」を超えられます。特に、彩色には必要不可欠の要素です。写す側の感性が、これらに影響を与えるといってもよいと思います。
「能面」の強さとたおやかさを実際に見たのは、早稲田大学の演劇博物館で行われた現代能面師の能面展での師匠の作品でありました。他の能面師の作品との違いは分かったが、それが室町の彩色だと分かるのは、もっと後で、師匠の「雪の小面」の写しを見せて頂いた時でした。彫刻が細部にわたりきっちり写されていることは元より、強さとたおやかさが両立している彩色には驚きました。ただ時代が経過しただけではない、奥底から湧き出る深い味わい、なんとも言葉では言い難い幽玄の色、現代の作品とは思えない品の良い、落ち着いた古さ、それらが自然の景色のように絶妙なバランスで構成されていました。正に、これが室町の彩色なのでした。
今思うと、室町時代の「能面」を見る感性を鍛えてくれたのが、師匠の作品であったと思います。隙のない美しさの中に、強さとたおやかさを両立させている作品は、室町時代の「能面」の本質を理解できる者にも、もちろん私にも、素晴らしい手本であります。
師匠の作品の虫干しでは、室町彩色の「能面」が二百近くも並びます。何百年も時間が戻った感がするほどです。どの「能面」を見ても、幽玄の妙味が随所に見えます。いや随所というよりは、全体が幽玄の世界です。そのとてつもない幽玄の妙味と隙のなさゆえに、見る者を圧倒します。そして、まるで室町の作者と対話しているかのように、どの「能面」からも本面の作者の声が伝え聞こえてくるようです。「どうだ、お前に写せるか?」と迫ってきます。「能面」を打つ者にとっては、挑戦状を叩きつけられているようです。そして、「一所懸命、写して見なさい」とも聞こえます。これは師匠の厳しくそして優しいことばかもしれません。
幽玄の妙味は、彩色のゆらぎが、程よくそして自然のそれのように制御されて、はじめて現われます。師匠の作品は、一見すると、それは無造作に彩色された様子を見せます。それ故、その難しさが分からないうちは、簡単そうに見えるのです。しかし、このゆらぎを作り出すことは、至難です。どうやっても、作為が入り込むのです。ただの真似では、幽玄の妙味は写すことができません。彩色のゆらぎは、いく通りも組み合わせがあるはずです。師匠の彩色の面白みがどこにあるのか、どんなゆらぎの組み合わせが幽玄の深みを醸し出しているのか、自分の感性でよく見据えなければなりません。そして、それを自分が制御できる彩色のゆらぎに置き換えられるか、実際に彩色を施しながら大胆に試して行くしかありません。行き過ぎた彩色を、様々な方法を使って、幽玄の妙味に変えてゆける遊びの感覚が必要です。これらの、言うならば彩色の妙味は、日本独特の自然観に通じます。世界を魅了している、古き良き日本の景色です。