能面との対話 ⑥ 〜よろこび〜

 能面を作っていてはじめてよろこびを感じたときのことを思い出すことがあります。自分の能面を見る審美眼が格段に上がったと感じて、その審美眼と自分の作品が同じレベルになった時です。自分の審美眼と作品は、相互に作用して、ある時はゆっくり、ある時は唐突によくなります。能面への審美眼すなわち感性は、ただ能面を作っているだけでは身につくものではありません。確かな技術を習得しながら、名品と呼ばれる作品を見て、心技を整えてゆくしかありません。私の場合、師匠の教室でそれは同時にできました。

私の「能面」に対する審美眼は、師匠の「能面」に対する考え方、向き合い方、そして師匠の作品を直接見聞きすることによって養われました。もちろん、他の能面師の作品も見ています。審美眼は、自分の手で幽玄の色を実践できてはじめて、裏付けを得たことになります。実践できないうちは、会得したと思っている審美眼の力は次第に弱くなっていきます。元に戻ってしまわないうちに、自分で実践するか、師匠の作品を見て、強化するしかありません。これは、永遠の修行のようなものです。そして、修行の中のよろこびはいつ訪れるかわかりません。徐々にまた突然出会うことがあります。だから、「能面」作りを永遠に続けます。「能面」作りは、私にとってよろこびを追い求める永遠の過程であって、限りなくつづく修行のようなものであるからです。

よろこびは、理屈ではありません。自分の感性を作品として表現し尽くしたとき、最初のよろこびは訪れます。そして、舞台にかけてもらった「能面」が魂を吹き込まれたとき、よろこびは倍増します。演じる側と見る側が「能面」を通して目に見えぬ感性を授受し合い、その空間に何か得体の知れないエネルギーを感じる時です。さらに、作品を人前に出し、よりたかき感性を持つ人と直接的に共感できたとき、最上のよろこびとなります。仕合せを感じる瞬間です。

私は、この最上のよろこびを見つけるために、「能面」を作り続け、共感してくれる人々を探し続けます。その人たちは、一体どこにいるのでしょう。よろこびを求めて、永遠に歩き続けます。